2009年11月02日

私の美術修業

私の美術修業

『栄光』144号、昭和27(1952)年2月20日発行

 今年の夏は、いよいよ箱根神仙郷の美術館が出来(しゅつらい)す

る事になるが、これについての奇蹟を少しかいてみよう。私はいつも

いう通り、若い時分から美術が好きであったが、それはただ見て娯し

むだけの事で、世間よくある好事家(こうずか)程度であった。もち

ろん金もないから買う事も出来ず、博物館や展覧会、デパート等へ行

って観るだけで、満足するよりほかなかった。ところが終戦後仕事が

段々宗教的になってから、相当金も入るようになった事と、当時戦後

のドサクサ紛れのため、随分いい物が安く買えたので、私もこの時と

ばかり買うには買ったが、それは一部のものに限られていた。という

のはその頃の私はある種の物だけしか目が利かなかったからで、まず

光琳、宗達の絵とか、仁清(にんせい)、乾山(けんざん)、鍋島の陶

器、その他蒔絵物くらいであった。もっとも蒔絵だけは若い頃習っ

て、自分で製作した事もあったからでもある。


 そんな訳で少しずつ品物が集るにつれて、本教のモットーである地

上天国、真善美の世界を造るとしたら、美が必要であるのは言うまで

もない。なるほど真と善は精神的のものであるからいいが、美は物質

であり、具体的に現さなければならないとしたら、天然美もそうだ

が、人工美もそれに伴わなくてはならない。それには美術館を造る事

である、という考えが頭に出来て来た。ところが昭和十九年春箱根に

移住すると共に、隣地に格好な土地があり、それを手に入れるや、間

もなく熱海の方にも理想的な土地が見付かったので、これも手に入れ

るというように、次々広がって現在見る通りの素晴しい構想にまで発

展して来たので、全く神様の深遠なる御計画が、着々実現しつつある

のである。そんな訳で規模も大きくなり、箱根の方もいよいよ最後の

美術館が出来ると、一段落つく事となったのである。


 それについての面白い事などかいてみるが、前記の通り私は美術に

ついては、ある種のものしか分っていなかったところ、神様はおいお

い私の眼を開かせるべく、美術教育をさせられた。それは最初の一、

二年は琳派と日本陶器、すなわち仁清、乾山、鍋島類に関した、色々

写真図録などが手に入ると共に、品物も見せられ、専門家の話など

聞かされ、大体分るようになると、翌年は近代画や大和絵、浮世絵、

次の年は東山水墨画、古筆、墨蹟類、宋元画等、また次の年は昨年で

あるが、支那朝鮮の陶器類、仏画等であったが本年に入るや新春

早々、仏像に関した種々な文献図録等が手に入り、日本初期の仏像等

も見せに来るので、今年の課目はこれだなと思ったのである。


 そうして面白い事には、今までの経験によると、ちょうど一種類一

年くらいで卒業するようになっている。ところが普通人では二十年、

三十年も掛かるのを、私は一年くらいで同じ程度の修業が出来てしま

うので、最初私を教えた人達が、反対に私から教わるようになってし

まう。全く不思議である。そのような訳で今度美術館へ並べる品物を

観れば分るが、実に多方面にわたっている点は、まず日本にも世界に

も類はあるまいと思う。そうして余り人の気の付かない事だが、日本

には日本美術館は一つもないという意外な事実である。それは現在あ

る日本の美術館を見れば分るが、彼の国立博物館にしろ仏教美術だけ

は、なるほど立派なものがあるが、遠慮なくいえば他はまことに貧弱

である。また今度出来たブリヂストン美術館にしろ洋画美術館であ

り、大倉集古館は支那美術、根津美術館は茶器類と支那銅器、京都

物館は寺院美術、有鄰館(ゆうりんかん)は支那美術、住友美術館は

支那銅器、大阪の白鶴美術館は支那陶器銅器、岡山の大原美術館は西

洋美術というようになっている。

 としたら日本人でありながら、日本美術が観られないというのは、

何と寂しい事ではないか、私はこの点に鑑(かんが)み、箱根美術館

は、日本独特の美術に力を注ぎ、誰にも満足を与えるつもりである。

もっともまだ規模は小さいが、とにかく観る者をして、今更ながら日

本人の美術に対する優秀さを再発見すると共に、外客の眼も少なから

ず驚かせるであろうから、従って観光国策に対しても、大なる役割を

荷うのはもちろんである。
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岡田もきち(茂吉)師の救い

私の光

地上天国』36号、昭和27(1952)年5月25日発行

 この文は文明の創造中の一項目であるが、早く知らす必要があるから、ここに掲載したのである。

私の光

 私は仏教について、今まで何人も説かなかった色々の事をかいて来

たが、もちろんこれは神示によって知り得たものばかりで、読む人は

驚異の眼を瞠(みは)るであろう。とすればなぜ神は今日までそれを

明らかにせられなかったかというと、全く時節のためである。時節と

はさきに述べたごとく夜昼の転換という一大エポックであって、つま

り今まで長い間続いて来た夜の世界、すなわち暗黒無明の世界が消

え、昼の世界すなわち赫々(かくかく)たる太陽の光の世界が近づき

つつあるのである。しかし暗の夜といっても、月光によってある程度

物を見る事が出来たので、せめてもとして人間は喜んだのである。こ

れが真如の月の教え、すなわち仏教であった。


 右のごとく、月光では薄明りで、ハッキリ見る事が出来なかった。

何しろ月光は太陽に比較して六十分の一の光度でしかなかったからで

ある。従って夜の期間中は宗教は固より、何も彼も徹底的に見えない

のは当然で、それがため人間は迷いを生じ、真の安心立命は得られな

かったのである。ところが昼となるや天日の下、地上一切のものは

明々白々に露呈されるので、分らないものはなくなる訳である。ゆえ

に昼の文明を創造する私としては、一切が分るのは当然である。では

私と昼の世界との関係を一層徹底してみるとこういう事になる。すな

わち私には光明の玉、昔から言われている如意宝珠(にょいほっし

ゅ)が体内に宿っている。この事は以前にも発表したが、ここでは光

について詳しくかいてみよう。元来光とは太陽そのもののように思う

であろうが、そうではない。本当は太陽と月との密合したものであ

る。

 そのように両極端の元素が光の本質とすれば、それが私の肉体に宿

る以上、肉体は土素であるから火水土の三位一体となる。しかしそれ

だけなら普通人は土ばかりかというと、そうではない。普通人にもそ

れぞれ光はあるが、ただ小さく弱いのである。ところが私にある光の

力は非常に大きいもので、普通人の何万倍か何百万倍か、あるいは無

限大かも分らない程で、ほとんど想像を絶するといってもよかろう。

何となれば私が今毎日のようにかいている御守の文字である。光、光

明、大光明の三種であるが、これを懐へ入れるや即座に人の病気を治

し得る力を発揮される。この力こそ御守の文字から放射される光のた

めである。ところが私はその御守の文字をかく場合、祈りもせず何ら

変った事はやらない。ただ一枚ずつすこぶるスピードにかく。まず一

枚かくのに七秒平均であるから、一時間に五百枚は楽である。その一

枚の紙で何万人もの病気を治せるとしたら、今後何万何十万の人間に

与えても、効果は同様である。とすれば私がもっている光の力は、ほ

ぼ想像がつくであろう。


 これ程絶大なる力をもつ私としたら、何物も分らないはずはない。

信者はよく知る通り、いかなる事を訊かれても、私は答えに窮した事

はない。また遠方の人で病苦に悩んでいる場合、よく電報などで御守

護を頼んでくるが、それだけでお蔭を貰う人も沢山ある。それは私の

耳に入るや、一瞬にして光の一部が分裂してその人に繋がる。これに

よって霊線を通じてお蔭を頂くのである。このように光は何万倍に

も、どんなに遠くても放射され、連繋されるのだから重宝である。一

層判り易くいえば、私から放射されるものは、言わば光の弾丸であ

る。言うまでもなく普通の弾丸と異(ちが)うところは、彼は人を殺

すが、吾は人を生かす。彼は有限であるが、吾は無限である。


 以上大体の説明であるが、これは私の力のホンの一部分であって、

全体を説明するには容易ではない。何よりも今後私のやる仕事を活眼

を開いて見て貰う事である。智性の働く人ならある程度分らないはず

はない。信仰的にいえば身魂相応にとれるのだから、この意味からい

っても、信者は精々身魂を磨き、曇りのないようにしておく事で、そ

うすれば正覚を得て私の力徳が分るはずである。
岡田茂吉師御論文 http://www1.odn.ne.jp/~jyourei/goronnbunn.html
タグ:救い 希望
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男女の恋愛にしても根本は神秘的魅力である

私の神秘

未発表『私物語』昭和27(1952)年執筆

 私はいつも思っている事は、私程不思議な人間は世界肇(はじま)

って以来一人もない事を信じている。実に何から何まで不思議だ。自

分でさえそう思っているのだから、他の人としたら私という者の実体

を想像してみても、結局群盲的であろう。というのは神秘性が余りに

多いからである。ところが面白い事には人間の欲の中で、最も興味を

惹くものとしては、何といっても神秘性であろう。そうして神秘とい

うものは、あらゆるものに潜んでいる。彼の人類学者が古代の遺跡

や、原始人の生活を研究するのも、その当時の神秘を探りたいからで

あろうし、科学者が一生を賭(と)してまでも物理現象を研究し、解

剖し、専攻するのも、無から有を生ぜしめたり、原子発見や物質転換

の理を知ろうとするのも、その物の神秘を暴こうと思うからであろ

う。また医学者が一生を顕微鏡と首ッ引きで、死体解剖や動物実験に

努力をするのも、生命の神秘を掘出そうとする目的であり、天文学者

望遠鏡から大空を絶えず覗いているのも、日月星辰、風雨雷霆、気

候の変化などの研究に浮身をやつすのである。その他歴史家、地理学

者等もそうであり、文学者、美術家等がインスピレーションに触れる

べく、芸術的神秘を得ようとするのも同様であろう。このように専門

専門によって形は異(ちが)うが、神秘を欲する点には変りはないの

である。

 また話は違うが、男女の恋愛にしても根本は神秘的魅力である。相

愛する感情の波に揺れつつ離れ難くなって、ついには生命までも犠牲

にするのも実に神秘である。というように人生は絶えざる神秘との戦

いであるとも言えよう。実に神秘なるものは、学理でも理屈でも分ら

ないと共に、その力は無限である。従って今日のごとく文化の進歩し

たのも、神秘探究こそ根本条件といってもいいであろう。そうして神

秘中の神秘ともいうべきものは、何といっても信仰であって、神仏に

対する信仰の神秘性は、恋愛以上といっても過言ではあるまい。とは

いうものの単に宗教といっても、既成宗教は一部を除いては、今日ほ

とんど神秘らしいものはないと言うのが実際であろう。なるほど開教

当時は相当神秘もあるにはあったであろうが、長い間に在るだけの神

秘は、最早暴(あば)き尽されてしまったのでもあろうが、そこへゆ

くと新宗教によっては神秘性が多分にあるというのは、何だ彼んだ言

われながらも今日既成宗教を圧倒して相当の発展をしつつあるという

事実である。ちょうど古女房と新婚ホヤホヤの若い女性との相違のよ

うでもあるが、しかし新宗教にも神秘性の多い少ないのある事はもち

ろんだが、その中で自画自讃ではないが、特に我メシヤ教くらい神秘

の多い宗教は、恐らくあるまい。何よりも本教発展の速かなるにみて

も肯れるであろう。そうしてその奇蹟の本尊が私であるとしたら、私

という者に内在している神秘力は、いかに豊富であるか想像もつかな

いであろうから、私は出来るだけ分らしたいと思うが、この説明こそ

は実に困難である。どうしてもある程度以上は、その人の智慧証覚に

応じて覚るより仕方がないのであるから、精々身魂を磨いて覚者とな

る事である。ではこれから色々な面から、私自身を解剖し、赤裸々

露呈しようと思うのである。
岡田茂吉師御論文 http://www1.odn.ne.jp/~jyourei/goronnbunn.html
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2009年10月29日

子供に勉強する気のないのは親にも罪がある 叱っても逆効果となる

子供勉強する気のないのは親にも罪がある。一つには浄化作用であ

る。あまりやかましくいわず、親が信仰を熱心にして、自分自身反省

して、神の守護を受ける。叱っても逆効果となる。
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観音心と観音行

観音心と観音行

『観音の光』10号、昭和11(1936)年4月11日発行

 観音心とは観世音の御心の具現であり、観音行とはその具現の実行

である。

 しからば観音心とはいかなるものであるか、これを出来るだけ判り

易く説いて見よう。ついでに言うがこの観音心は、思想として未だ嘗

(か)つて人類の経験にも、哲学にも無いのであって、端的に言えば

現在の思想が精〔清〕算されての後に来るもの、即ち明日の思想であ

る。

 この観音心とは一言にして言えば、応変自在融通無碍の心的活動で

ある。今日までのあらゆる思想宗教哲学等は、一定の法則主義主張又

は戒律を造りそれを実践せんとして飽くまで固着する結果、限られた

る一定期の成果は在るが、時所位に依る変化物象の流転に応化する能

(あた)わずして、ついにその生命力を失墜してしまうのは、余りに

も瞭(あきら)かな事実である。たとえて言えば、国と国とは国是国

策を遂行せんとする固執によって一歩も枉(ま)げずついに戦をも起

し、又政治団体は主義に依って党派を生じ、階級はその利益の固執に

よって軋轢(あつれき)し、宗教は解釈意識の相違によって、派を立

てゝ相争う結果を生ずるのである。これが実に人類社会闘争の根源で

あって、優勝劣敗も、弱肉強食も悉(ことごと)くがこの産物と云っ

てもよいのである。

 この根本に気が付かなければならない。仏陀は慈悲を説き諭した、

因果の法則を示した、基督(キリスト)は愛と犠牲を、孔子は人倫の

道を、モーゼは戒律をそれぞれ人類の為めに説いたことはすくなから

ず役立って居るのは否定すべくもない。しかしこれら各々が持つ特殊

性は、人類向上の為めの一分野であったに過ぎなかった。何となれば

そのいずれもが、教理を立て戒律を造って居る。それはそれ自身が既

に限度を示して居る。この故に完全ではない、教の無い教、戒律の無

い戒律、主義の無い主義でなければならない。即ち応対変通である。

それこそ宇宙の運行と倶(とも)なる真理の具現である。これを卑近

な例にとって見よう。人間の不正を矯(た)めるに法律がある。この

法律はかくすべからずの項目が何百何千もあるが、いかに努力すると

も所期の目的を達し得ないのである。それは法規の文字によって範囲

と限度とを示して居るからである。不正な人間はこの限られたる法文

以外に不正な手段を発見しようとするのが、何よりの実証である。法

網粗であった時代より、法網益々密になって、犯罪は減少しなければ

ならないはずであるのに、事実はその反対の結果をさえ示すと云う皮

肉は、私の説を裏書して居る。

 彼の釈尊の八万四千もある経文は、法網の密なる理と、全く等しい

と、思うのである。

 この故に人間悪を絶対に匡正(きょうせい)する方法それは人間内

面に在る魂の工作でなくては根本的ではない。その魂さえ浄化清澄で

あったなら、例えば法律の無い世界に住して居ても不正をやらないの

は自明の理であるが、この状態の魂こそは、法規や道徳や戒律に何ら

束縛をされて居ないところの、実に自由無礙(むげ)自主的活現であ

るからである。天地と共なる真理そのままの姿であるからである。こ

れ即ち観音心である。
タグ:観音様 救い
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観音様に御願する態度

観音様に御願する態度

未発表、昭和10(1935)年頃に執筆と思われる

 今までの何か信仰してる、信者の信仰の仕方は、私から見れば大変

間違っているのである。

 特に神前において御祈願をする場合、そうである。例えば、何か願

事をするのに、まことに諄々(くどくど)し過ぎるのである。泣くが

ごとく、訴うるがごとく、肩を震わし、哀憐(あいれん)を、強いて

こうごとき態度は、むしろ醜(みぐる)しい位のものであって、それ

を数分も、数十分も掛るものさえあるのである。

 これは大変な間違いである。たとえて言えば、神様は親様であり、

人民は子のようなものであるから、子が親に対し、希望を乞うのに、

泣かんばかりに、執拗に訴えるのは、親として決して、気持の好いも

のではないであろう。この理によって、観音様へ御祈願する場合、な

るべく、非礼に渉らぬよう心掛くると共に、言葉は簡単が良いのであ

る。故に、一つ事を繰返すのは、大変善くないのである。なぜなれ

ば、観音様は、人間の心の底まで見透して被在(あらせ)らるるか

ら、御祈願する前から判って居られるのは勿論である。故に、御祈願

しなくとも、常に乞い願っていた事が、奇蹟的に実現する事が、能く

あるのはそういう訳である。又人間でさえ、一つ事を繰返されるの

は、嫌なものであるから、況(ま)して御神霊へ対し奉っては、その

点を呉々(くれぐれ)も、心掛くべきである。

 序(ついで)であるから、今一つ注意しておきたいが、今までの習

慣上、観音会の祝詞の外に、観音経を奏げる人がよくあるが、これも

大変間違っているのである。元々観音経は、釈尊の時代梵語(ぼん

ご)で出来たものである。それはその時代の印度人に読ませる為であ

る。それを又漢訳したものであるから、本当から言えば、日本人が読

むのは間違っているが、今までは、代るべきものが無かったから致し

方なかったのである。

 又時間も、観音経は三十分以上を要するのであるから、二千五百年

以前の印度人ならイザ知らず、現代文化生活者の日本人としては余り

に時代錯誤である。これも悉(みな)、応身弥勒であらせらるる観音

様の応身、否(いな)応世の御経綸の一端であると、察するのであ

る。
タグ: 観音様
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風邪をひく理由 風邪になる理由

感冒とは何か

『結核の正体』昭和18(1943)年11月23日発行

 吾人が社会生活をする上において、風邪を引かぬようにする事の可

能であるや否やをまず考うべきである。恐らくこれは絶対不可能であ

ろう。何となれば、風邪を引くという事は寒い思いをするためとされ

ている。ゆえに就寝の際寝衣(ねまき)を着替える事、起床の際衣服

に着更える事、入浴の場合または降雨や寒風の際の外出等々はいずれ

も風邪引きの機会ならざるはないであろうから、かような機会を一日

といえども全く避ける事は何人といえども至難であろう。

 これについて私は、世人のあまり気付かない点を説いてみるのであ

る。それは実際上、必ずしも寒い思いをしても風邪を引かない場合も

あり、また風邪を引く場合もある事である。それはいかなる訳かとい

うと、寒い思いをしても風邪を引かないのは全然熱のない時である

が、寒い思いをして風邪を引くのは、実は微熱がある時である。その

理由はこうである。微熱があって風邪を引くという場合は、実は風邪

を引きかけている時、すなわちその前駆としての微熱であるから、そ

の場合寒い思いをしてもしなくても風邪を引く事になっているのであ

る。また特に微熱のある場合は、寒い思いをしなくとも悪寒があるか

ら、どこにいても、厚着をしても非常に寒いのである。


 しかしながら、ここに特に知っておかねばならない事がある。それ

は気候がかわり、寒気に触れる場合、その寒気に順応すべく自然浄化

作用が発生する。そのための感冒もあるが、これは予防は不可能であ

る。


 以上のごとき理由を考うる時、風邪に罹らないようにする事は、絶

対不可能である事が知らるるのである。従って、風邪を引かぬように

注意するなどという事は出来ない相談で、なんらの意味をなさないば

かりか、むしろ神経的になるという悪影響さえこうむる訳である。私

は思う。およそ世の中に注意によって風邪を引かぬように出来得る人

が一人でもありやという事である。


 そもそも、感冒とはいかなるものであるか。医学においては今もっ

て原因は不明とされている。しかし私は、私の見地から概略説明して

みよう。まず人間の健康及び不健康とはいかなる原因によるかという

と、それは血液の純不純によるのである。すなわち健康とは浄血の持

主であり不健康とは濁血の持主である。しかるに幸いなるかな、濁血

者といえども人体は不断に浄化作用が行われつつあるから、その結果

として血液中の汚濁分子は一定の局所に集溜凝結する。すなわちさき

に説いたごとき第一浄化作用であり、次で第二浄化作用が起こり、凝

毒素の排除作用が始まる。これを称して感冒というのである。そう

して発熱によって凝結毒素が溶解し、液体化し、喀痰となるが、喀痰

は一旦肺臓内に滞溜する、それを咳嗽というポンプ作用によって吸出

排泄する、この理によって、感冒とは最も簡単なる浄化作用にして、

これあるによって濁血者も浄血者となり、健康は増進さるるのであ

る。ゆえに結核防止の第一条件としては出来るだけ感冒に罹るように

する事であるに拘わらず、右の理に不明である医学は、反って感冒を

悪化作用と誤解し、極力浄化抑止をするのである。この理によって、

結核蔓延の主なる原因としては、感冒に罹らぬようにしたり、せっか

く感冒に罹っても、薬剤その他の方法をもって浄化作用停止を行う。

そのためである事を知らねばならないのである。

 ゆえに、感冒とは、神が人間に与えた大なる恩恵であると共に、自

然的生理作用ともいえるのである。
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風邪の原因

寒冒

未発表『文明の創造』昭和27(1952)年執筆

 いよいよこれから病気についての解説であるが、現代医学の解釈

は、人体を単なる物質と見做(みな)して、唯物療法を進歩させて来た

医学は、どの点に最も欠陥があるかを、順を逐うて書いてみるが、そ

れについてはまず、実際の病気を取上げて説明してみるのが、最も判

り易いからそういう事にする。

 まず、人間として、何人も経験しない者のない病としては寒〔感〕

冒であろう。ところが寒冒の原因は医学では今もって不明とされてお

り、近来僅かに発見されたのが、ウイルスによる空気伝染とか、アレ

ルギー性によるとか言われているくらいで、吾らからみれば問題とす

るには足りない稚説である。この説も近き将来無意味とされる事は間

違いあるまい。


 そもそも、人間は先天的に種々なる毒素を保有している事は医学で

も認めている。例えば天然痘、痳疹(はしか)、百日咳等は元より未

知の毒素も色々あるであろう。ところでそれら毒素は自然生理作用が

発生し、外部へ排泄されようとする、これを吾らの方では浄化作用と

言う。そうして毒素は、最初一旦人体の各局部に集溜する。その場合

神経を使うところ程多く集まる、人間が最も神経を使うところは、言

うまでもなく、上半身特に頭脳に近い程そうである。人間が目が醒め

ている間手足は休む事はあっても、頭脳を始め目、耳、鼻、口等は一

瞬の休みもない。としたら毒素集溜の場合もそうであって肩、頸、淋

巴腺、延髄、耳下腺付近は固より、頭脳が主となっている。このよう

に各部に集溜した毒素は、時日を経るに従って、漸次固結する。それ

がある限度に達するや、排除作用が発生する。ここに自然の恩恵を見

るのである。何となれば固結のため、血行が悪くなり、肩、頸が凝

り、頭痛、頭重、視力減退、耳の鈍聴、鼻詰まり、臭覚の鈍化、歯槽

膿漏、歯牙の劣弱、息切れ、手足の弛緩、腰痛、浮腫等々により、活

動力が減殺されるからで、それがため人間本来の使命が行われない事

になる。それで造物主は病気という結構な、浄化作用を作られたので

ある。


 右のごとく、毒素排除作用の苦痛が病気であるとしたら、病気こそ

浄血作用であり、健康上最も必要な物で、神の恩恵中最大な物という

べきである。ゆえにもし人類から、病気を取除いたとしたら、人間は

漸次弱って、ついには滅亡に到るかも知れないのである。ところが私

は、病無き世界を造るというのであるから矛盾するように思うであろ

うが、これは根本的に異(ちが)っている。というのは人間が無毒に

なれば浄化作用の必要がなくなるから、共に病気もなくなるのは判り

切った話である。この意味において私は、これから出来るだけ解り易

く徹底的に説いてみよう。


 話は戻るが、固結毒素の排除作用を、私は浄化作用と名付けたが、

まず初め寒冒に罹るや発熱が先駆となる。自然は固結毒素の排除を容

易ならしめんがため、熱で溶解させ液体化させる。この液毒は速やか

に肺に侵入するが、この作用は実に神秘であって、例えば吾らが浄霊

(これは療病法の名称)によって固結毒素を溶解するや、間髪を入れ

ず肺臓内に侵入する。その場合筋肉でも骨でも透過してしまうのであ

る。何より身体各局所にある固結毒素(以下毒結と称す)が、普通

一、二箇所くらいなら軽い症状で済むが、局所を増す毎に重くなる。

最初軽いと思った寒冒が漸次重くなるのは、その意味である。


 右のごとく、液毒は迅速に肺臓内に侵入し、稀薄な場合は痰となっ

て即時排泄されるが、濃度の場合は一時停滞し、咳というポンプ作用

を待って、間もなく気管を通じて外部へ排泄される。咳の後には必ず

痰が出るに見ても明らかであり、くしゃみの後に鼻汁が出るのも同様

の理である。また頭痛、咽喉の痛み、中耳炎、淋巴腺炎、手足の関節

や、鼠蹊(そけい)腺等の痛みはいずれもその部にあった毒結が溶解

し、出口を求めようとして動き始める。それが神経を刺戟するからで

ある。そうして液毒には濃い薄いが出来る。濃いのは喀痰、鼻汁、下

痢等になるが、極薄いのは水様となり、盗汗(ねあせ)や尿によって

排泄される。このように浄化作用なるものは、最も自然に合理的に行

われるもので、造物主の神技に感嘆せざるを得ないのである。一体造

物主すなわち神は、人間を造っておきながら、病気などという人間を

苦しめ、活動を阻害するようなものを与えられるはずはなく、常に健

康であらねばならないにかかわらず、人間が誤った考えで毒素を作

り、貯溜させるので、止むなく排除の必要が発る。それが病気である

とすれば、寒冒の場合も何らの療法もせず、自然に放任しておけば完

全に浄化が行われるから順調に治り、健康は増すのである。この理に

よって人間は出来るだけ風邪を引くようにすべきで、そうすれば結核

などという忌わしい病は跡を絶つのである。


 ところがどうした事か、いつの頃からか不思議にも、右の清浄作用

を逆解してしまった。そこで発病するや極力浄化を停めようとする。

何しろ浄化の苦痛を悪化の苦痛と間違えたのだから堪らない。そのた

め熱を恐れて下げようとする。解熱すれば毒結の溶解が停止されるか

ら咳嗽を初めあらゆる症状が軽減する。ちょうど病気が治るように見

えるのである。判り易く言えば、せっかく溶け始めた毒結を元通りに

固めようとする、その固め方法が医療なのである。氷冷、湿布、薬

剤、注射等すべてはそれであって、全部固まると同時に症状が消失す

るので、これで治ったと思って喜ぶが、何ぞ知らん、実はせっかく排

除をしようとするその手を抑えつけるようなもので、これは事実が証

明している。よく風邪が拗(こじ)れるというが、これは人体の方は

浄化しようとするとそれを止めようとするため、つまり浄化と非浄化

との摩擦となるから長引くのである。一旦風邪が治っても、暫くする

と必ず再発するのを見ても分るであろう。ゆえに結果から言えば、医

療とは病気を治す方法ではなく、治さないで延期させる方法という事

である。従って本当に治るという事は、毒素を外部へ排泄させ、体内

が清浄となって、病気の原因が皆無となる事である。だから真の医術

とは浄化が発った際、固結毒素をより速く溶解させ、より多く体外へ

排泄させる事で、それ以外真の療法はないのである。

 右の理に対し一つのたとえを書いてみよう。すなわち借金をしてい

る場合である。段々利息も溜り、期限が来て返済を迫られるので、一

時に払うのは辛いから、外から利子の金を借りて一時凌(しの)ぎを

する。するとまた期限が来たのでまた借金して一時免れをするという

工合で、元金の外に利子も段々増え、請求も巌しくなるが益々返金が

出来なくなる。そこで貸主は承知せず、差押え、または破産の訴えを

するが、返済が出来ないので破産する。つまり寒冒もこれと同様で、

最初の返済期が来た時、苦しくとも払ってしまえばそれで済むもの

を、辛いから借金を増しても一時免れをする。それが薬を主とした医

療である。従って引き延ばす毎に薬毒が殖え、ついに一時に請求され

る事となる、これが肺炎である。ところが貸主も相手の支払い能力を

考慮し、緩慢な請求をする、これが結核と思えばいいのである。
タグ:風邪 病気
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感じの良い人

感じの良い人

『栄光』257号、昭和29(1954)年4月21日発行

 およそ感じが良いという言葉程、感じの良い響きを与えるものはあ

るまい。ところがよく考えてみると、処世上これが案外重要である事

である。それは個人の運命は固(もと)より、社会上至大な関係があ

るのである。例えば誰しも感じのいい人に接すると、その人も感じが

良くなり、次から次へと拡がってゆくとしたら、心地(ここち)よい

社会が出来るのはもちろんである。故に忌わしい問題、特に争いは減

ると共に犯罪も減るから、精神的天国が生まれる訳である。しかもこ

の事たるや、金は一文も要らず、手数もかからず、その場からでも出

来るのであるから、こんな結構な話はあるまい。というと至極簡単に

思えるが、事実はそんな旨い訳にはゆかないのは誰も知るであろう。


 というのはこれは外形的御体裁(おていさい)では駄目だからで、

どうしても心からの誠が沁(し)み出るので、その人の心の持ち方次

第である。つまり利他愛の精神が根本である。これについて私の事を

少しかいてみるが、私は若い頃から自分で言うのもおかしいが、どこ

へ行っても人から憎まれたり、恨まれたりする事は余りない。親しま

れ慕われる事の方が多いのである。そこでその理由を考えてみるとこ

れだと思う一事がある。それは何かというと、私は何事でも自分の利
益や自分の満足は後廻しにして、人が満足し喜ぶ事にのみ心を置いて

いる。といっても、別段道徳とか信仰上からではなく、自然にそうな

る、つまり私の性格であろう。換言すれば一種の道楽でもある。そん

な訳で得な性分だとよく人から言われたものだが、全くそうかも知れ

ない。しかも宗教家になってから一層増したのはもちろんである。そ

こで人が病気で苦しんでいるのを見ると、いても立ってもおれない気

がして、どうしても治してやりたいと思い、浄霊をしてやると、治っ

て喜ぶそれをみると、それが私に写って嬉しくなる。それがため以前

は随分問題を起し苦しんだものである。というのはもう駄目だと思っ

たら早く手を引けばよかったものを、本人や家族の者に縋(すが)ら

れるので、つい利害を忘れて夢中になり、遠い所を何回も行って、暇

をつぶし、金を使い、その揚句(あげく)不結果になって失望させ、

恨まれたり、愚痴られたりした事もよくあったもので、その度毎に俺

はもっと薄情にならなければいけないと、自分で自分を責めたもので

ある。


 この私の性格が地上天国や美術館を造る援(たす)けともなったの

であるから、こういう性格を神が与えたものであろう。例えば、結構

な美術品や絶佳な風景を見ると、自分一人楽しむのは張合もないし、

気も咎(とが)めるので、一人でも多くの人に見せ、楽しませたいと

思う心が湧いて来る。という工合で、私は自分だけでなく、人に楽し

ませ喜ぶのを、自分も楽しみ喜ぶという事が一番満足なのである。
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過労及び倦怠感

過労及び倦怠感

『結核の正体』昭和18(1943)年11月23日発行

 人間が運動する結果として疲労する事は誰もが知る所である。これ

はなぜであるかというと、激しい運動やまたは普通運動にても持続す

る場合浄化作用が発生するからである。それが微熱であるから、疲労

時を診査する場合、腎臓部、腰部または脚部に必ず微熱をみるのであ

る。この理によって、運動をすれば浄化熱が発生する。それによって

毒素が軽減するのであるから、疲労する程の運動は、健康増進に対し

最も良いのである。しかるに医学においては右の理を逆に解して、過

労を恐れるという訳である。もちろん浄化作用の熱の意味を知らない

医学としては無理もないであろう。


 ゆえに、私は常に思うのである。それは医学は過労は結核の原因で

ありとする、そのためこれを避けようとするゆえに、産業戦士の能率

にすくなからず影響するであろう事を憂うるのである。しかるに私の

説のごとく、過労はむしろ健康上最善なる方法である事を知れば、能

率の上にいかに大なる効果を及ぼすかを想うのである。


 右によって考うるも、医学は外部的、一時的の症状のみに捉われ、

根本的永久的を考えない所に欠陥があるのではないか。ちょうど日光

によって草木の葉が垂れ、花がしぼむのでそれを恐れて日蔭へ持って

ゆくという意味と異ならないであろう。一時的なえた草木が、一夜を

経て再び生気溌剌たる事に思い及ばないという訳である。

 次に倦怠感とは、大した運動もせぬに常に微熱が発生するのである

から、これらを治癒せんとするには、大いに運動して高熱を出さしめ

る方が速く治癒するのである。それは微弱である浄化を強烈にする事

によって、毒素の排泄が速やかとなるからである。
タグ:健康 倦怠 過労
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