『栄光』144号、昭和27(1952)年2月20日発行
今年の夏は、いよいよ箱根神仙郷の美術館が出来(しゅつらい)す
る事になるが、これについての奇蹟を少しかいてみよう。私はいつも
いう通り、若い時分から美術が好きであったが、それはただ見て娯し
むだけの事で、世間よくある好事家(こうずか)程度であった。もち
ろん金もないから買う事も出来ず、博物館や展覧会、デパート等へ行
って観るだけで、満足するよりほかなかった。ところが終戦後仕事が
段々宗教的になってから、相当金も入るようになった事と、当時戦後
のドサクサ紛れのため、随分いい物が安く買えたので、私もこの時と
ばかり買うには買ったが、それは一部のものに限られていた。という
のはその頃の私はある種の物だけしか目が利かなかったからで、まず
光琳、宗達の絵とか、仁清(にんせい)、乾山(けんざん)、鍋島の陶
器、その他蒔絵物くらいであった。もっとも蒔絵だけは若い頃習っ
て、自分で製作した事もあったからでもある。
そんな訳で少しずつ品物が集るにつれて、本教のモットーである地
上天国、真善美の世界を造るとしたら、美が必要であるのは言うまで
もない。なるほど真と善は精神的のものであるからいいが、美は物質
であり、具体的に現さなければならないとしたら、天然美もそうだ
が、人工美もそれに伴わなくてはならない。それには美術館を造る事
である、という考えが頭に出来て来た。ところが昭和十九年春箱根に
移住すると共に、隣地に格好な土地があり、それを手に入れるや、間
もなく熱海の方にも理想的な土地が見付かったので、これも手に入れ
るというように、次々広がって現在見る通りの素晴しい構想にまで発
展して来たので、全く神様の深遠なる御計画が、着々実現しつつある
のである。そんな訳で規模も大きくなり、箱根の方もいよいよ最後の
美術館が出来ると、一段落つく事となったのである。
それについての面白い事などかいてみるが、前記の通り私は美術に
ついては、ある種のものしか分っていなかったところ、神様はおいお
い私の眼を開かせるべく、美術教育をさせられた。それは最初の一、
二年は琳派と日本陶器、すなわち仁清、乾山、鍋島類に関した、色々
な写真図録などが手に入ると共に、品物も見せられ、専門家の話など
聞かされ、大体分るようになると、翌年は近代画や大和絵、浮世絵、
次の年は東山水墨画、古筆、墨蹟類、宋元画等、また次の年は昨年で
あるが、支那朝鮮の陶器類、仏画等であったが本年に入るや新春
早々、仏像に関した種々な文献図録等が手に入り、日本初期の仏像等
も見せに来るので、今年の課目はこれだなと思ったのである。
そうして面白い事には、今までの経験によると、ちょうど一種類一
年くらいで卒業するようになっている。ところが普通人では二十年、
三十年も掛かるのを、私は一年くらいで同じ程度の修業が出来てしま
うので、最初私を教えた人達が、反対に私から教わるようになってし
まう。全く不思議である。そのような訳で今度美術館へ並べる品物を
観れば分るが、実に多方面にわたっている点は、まず日本にも世界に
も類はあるまいと思う。そうして余り人の気の付かない事だが、日本
には日本美術館は一つもないという意外な事実である。それは現在あ
る日本の美術館を見れば分るが、彼の国立博物館にしろ仏教美術だけ
は、なるほど立派なものがあるが、遠慮なくいえば他はまことに貧弱
である。また今度出来たブリヂストン美術館にしろ洋画美術館であ
り、大倉集古館は支那美術、根津美術館は茶器類と支那銅器、京都博
物館は寺院美術、有鄰館(ゆうりんかん)は支那美術、住友美術館は
支那銅器、大阪の白鶴美術館は支那陶器銅器、岡山の大原美術館は西
洋美術というようになっている。
としたら日本人でありながら、日本美術が観られないというのは、
何と寂しい事ではないか、私はこの点に鑑(かんが)み、箱根美術館
は、日本独特の美術に力を注ぎ、誰にも満足を与えるつもりである。
もっともまだ規模は小さいが、とにかく観る者をして、今更ながら日
本人の美術に対する優秀さを再発見すると共に、外客の眼も少なから
ず驚かせるであろうから、従って観光国策に対しても、大なる役割を
荷うのはもちろんである。

